ひとりの時間が育むもの
2010-01-15 00:08:00
カテゴリー ソリテュード(積極的孤独)
冬の澄み渡った日、太陽は時としてまっすぐに輝く光を届けてくれる。
そんな昼前、公園を散歩する。
子ども連れにはまだ早く、ランチをとる勤め人でにぎわう前のその時間は
つかの間のソリテュード・プレイス。
見ると、3名の小学生がボール遊びに興じていた。
彼らのかばんは、砂場の階段のそこここに置かれている。
【写真1】どの少年もゲーム機をもっているのか同じ品が目につく(左手前の品)
ひとりの少年が、仲間のボール遊びから1mほど離れた階段に座りDSゲームに夢中。
ボールが目の前にころがってきても気づかないのか俯いたままピクリともしない。
その姿は、早春の訪れを待つかの様な日差しの中では不気味にすらみえる。
そして数分後、その少年は光の眩しさを追い払うかのように黒いジャケットを
かぶった。
その中に身を縮めて、一心不乱にゲームの手をうごかしているのだろう。
【写真2】右側の黒い塊りは、ジャケットで日差しをよけゲームに没頭する後姿
孤独学を研究する中で、「ひきこもり」と「ひとりの時間を楽しむ者」の違いについては
しばしば触れてきた。
しかし、眼前に広がる風景はそのどちらとも形容しがたいものだった。
友達と連れ立ってそこにいる少年は、ひきこもりではない。
ジャケットをかぶり、温もりを疎んじてヴァーチャルの世界に熱中する行為は
彼なりのひとりの時間を楽しんでいるのであろう。
ただ、そこには「ひとり」、「楽しむ」、「時間」がそれぞれ点としてあるだけで
創造の源となる「ひとりの時間を楽しむ」という包括的で内省的な精神活動ではない。
彼は何に感動し、何に気づき、どんな絆を育むのだろう。
私はきょう一日、そしてこれからも彼の姿の意味について考えを巡らせ続けることになりそうだ。
