『おひとりさまの老後』p131でわたくしの「ソリテュード」と「ロンリネス」という考え方が紹介されていると知ったのは友人からだった。拙著『もう、「ひとり」は怖くない』を紹介している。
先週、このコラムでご紹介した「いい女ほどはケンカがうまい」でも触れた東京大学大学院教授 上野千鶴子氏が、その後このような形で「同感である」述べていることを考えると、ソリテュードというひとりの時間の有用性について意を強くするものである。
さて、孤独とどうつきあうか。それが問題だ。
孤独とは、ふたつのつきあい方しかない。まぎらわせるか、向き合うか。
日本語では孤独といわれるものには、「さみしさ loneliness」と「ひとりであること solitude」のふたつがある。「さみしい(ロンリー)」のと、「ひとり(ソリテュード)」とはちがう。
孤独と聞けば、すぐさま「さみしい」ということばを思い浮かべる旧世代の日本人は、プライバシーのなさが親密のあかしであるかのように身を寄せ合って生きてきた。彼らは、いつもすぐそばに他人がいる空間を「心地よい」と感じるひとたちだ。だが、他人との身体距離というのは、たんなる生活習慣だから、暮らし方が変われば身体感覚も変わる。
「ひとりでいること」は、おひとりさまの基本中の基本。どうせなら楽しむ方がよい。というより、「おひとりさま」を選ぶことは、ソリテュードの楽しみを選ぶことだ。
津田和壽澄さんが『もう「ひとり」は怖くない』(祥伝社、2001年)という本のなかで、やはり「ロンリネス」と「ソリテュード」を区別していた。同感だ。外資系の会社で走りつづけてきたもとキャリアウーマン。たくさんのひとと接し、交渉し、もまれてきたあげく、それをすべてこなせるひとが、そのうえで「ひとりは心地よい」ということには、説得力がある。うらがえせば、「ひとりは心地よい」と思えるあなたなら、安心しておひとりさまになれる。