出版ニュース 2002年 6月 掲載
10月27日から秋の読書週間が始まりました。
読書とは、人の創造の羽を大きく広げ、その中で勇気、友情、愛など生きるための豊かな情感を育むものだと考えます。
それは年齢・性別・国籍を問わず、いつまでも続いていく魅力ではないでしょうか。
「読書をすることの内的な過程とはどのようなものか」
「人間にとって本を読むことの効用とは何か」などについて「ソリテュード(積極的孤独)」の中の創造の過程の相関研究を行ったことがあります(以下『出版ニュース』ご参照下さい)。
2002年当時、朝の読書運動を推進している小学校は8974校でありました。
現在ではそれは小・中・高と広がり全体の72%(全国で2,6732校)を占めていることがわかっています(朝の読書推進協議会)。
毎朝本を読むことにより、読解力・文章力の向上はもとより、落ちついて一日のスタートが切れ、積極性や思いやりの心が生まれるといった効果も報告されており、これは当時も同様でした。
それを生む背景には、ひとりで行う読書の楽しみ、さらには読後そこから生まれた感情が発酵し、報告にあるような行動に昇華していくのではないでしょうか。わたしにとって良質の読書とは、読後から始まるといっても過言ではないのです。
「読書をすることの内的な過程とはどのようなものか」「人間にとって本を読むことの効用とは何か」などについて「孤独」(ソリテュード)の中の創造的過程の相関研究をしておられる津田恵子氏に執筆いただいた。
「本」を読むことを推進する活動が全国的な広がりを見せています。例えば、「朝の読書」を実践している学校は、8974校(2002年5月24日現在)に及び、「読み聞かせ」の活動は、図書館や書店、地域のサークル、労働組合や政治的党派を拠点としながら横断的に拡大しつつあります。
「朝の読書」運動は、もともと、千葉県の船橋学園(現・東葉高校)に勤務していた林公(はやし・ひろし)教諭の呼びかけで始められたもので、林教諭はその活動により「児童・生徒の自由選択で読書に親しむ習慣を定着させた」として、1996年の第44回菊池寛賞を受賞、また、林公教諭の「朝の読書」の呼びかけにより、クラスで実行して大きな成功を収めた大塚笑子(おおつか・えみこ)教諭には、2000年度野間読書推進賞子ども読書年特別賞が授与されました。
林教諭の主催する「朝の読書実践研究会」によれば、「朝の読書」のポイントは、1)みんなでやる、2)毎日やる、3)好きな本でよい、4)ただ読むだけという単純なものとなっています。
このような単純な要素から成る「朝の読書」は、今や全国に拡大し、「子どもたちに集中力がついた」「遅刻をしなくなった」「落ち着いた授業ができるようになった」などの報告が続々と寄せられています。
そこで、ここでは、このような「本」に対する期待と効果を成立させているのは何か、人々はなぜ本を読み、本を読むということにどのようなことを期待し、またその効用は何かについて、いくつかの問題を提起したいと思います。
作家の曽野綾子さんは、次の二つのねらいをもって「読書運動」を起こすことを提案しています。すなわち、1)出世したかったら本を読め、2)人と同じ生き方をして安心するな。自分を創るために本を読め。
これは、一見乱暴なキャッチフレーズのようですが、実は、「読書」の本質を表現したものとして注目に値します。亜細亜大学の大場博幸氏によれば、江戸時代には、「漢籍の読書」が教養と修養を兼ね備えた読書として機能していましたが、明示の立身出世の時代とともに、「洋楽の読書」が台頭し、さらには、読書内容よりはむしろ「効率的な読書」が立身出世のために受け入れられたことを明らかにしています。すなわち曽野綾子氏の指摘する「出世のための読書」は、近代日本の中にたしかに機能していたのです。
しかし、「読書」には、もうひとつの役割があります。それは、曽野綾子氏が指摘する第二のポイントである「自分を創るための読書」です。
19世紀の米国で最も広く、長く読まれた「本」は、『マッガフィ・リーダー』と、『ニューイングランド・プリマー』であると言われています。これらは教科書であると同時に、「人格の陶治」のために用いられたものです。
『マッガフィ・リーダー』は、1836年に出版され、南北戦争後の37の州で標準的な教科書として使用されました。現代でも電子テキストをはじめとして様々なかたちで復刻され、広く読まれています。
『ニューイングランド・プリマー(prim の発音は単音のi)』は、1690年に初版が印刷されたにもかかわらず、百年以上にも渡って全米で使用され、1900年になってもまだ使用されていたといわれています。
お茶の水女子大学の村田夏子氏は、『読書の心理学』の中で、従来の読書研究の流れを次のようにまとめています。
すなわち、1960年代から70年代にかけては、「読書量の個人差はどこからくるのか、性別や性格、環境、知能、言語能力などに着目して説明しようとする研究」が行なわれました。そして、これらの研究で中心的な役割を果たしたのは、「読書」に関する多数の著書を発表した坂本一郎氏でした。
さらに、村田氏によれば、1970年代後半になると、「人間の情報処理機能を総合的に扱おうとする認知心理学的研究がさかんになり、読みについても情報処理という側面からアプローチされるようになった」としています。
「読書研究」の過去の流れをレビューしながら、村田夏子氏は、読書の効果のひとつとして、「内的世界の広がり」を明らかにし、「本の威力」がどこから来るのかを様々な事例に基づいて論じています。
確かに、「読書」に関する従来の心理学的研究は、主として、1)行動発達の観点から、発達過程における知識獲得や学習の問題が論じられ、2)社会心理学的な見地からは、読書に導かれる社会的要因や家庭環境が論じられてきました(秋田喜代美)。しかし、このような側面のみでは、現在全国的に行なわれている「読書推進運動」とその結果としての様々な変化は説明できないのではないかと思われます。
「読書」が単に知識の獲得としてだけではなく、「人格の陶治」として用いられてきたことは広く認められるところですが、読書の効用として特に注目されているのは、「毒素療法」の役割です。
「読書療法」(ビブリオセラピー)というのは、行動療法の分野のひとつの治療法として「行動、思考、感情を変える手助けに、自助のための手引書や書物などを利用する治療法」(ベラック&ハーセン)と定義されています。ただ、実際は、この治療法は、「行動療法」よりはるかに長い歴史をもっています。
例えば、「最古」の痕跡としては、起源1200年ごろのテーベの図書館には、「魂の癒しの場所」と記されていたことが知られています。このときテーベは、ラムセス2世(紀元前1304〜1237)の支配下にありました。そこまで古くはなくとも、「本」を精神療法の手段として考えていた人物の中に、米国の精神療法家ウイリアム・メニンジャーがいます。メニンジャーは、1945年に自分の兄弟が発表した『人間の心』(邦訳は1952年、日本教文社)が、精神療法のツールとして、専門家や一般の人々にも広く用いられていることを知り、以来、「読書療法」(ビブリオセラピー)の擁護者となりました。
海外、特に米国において「読書療法」の研究が盛んに行なわれている一方で、我が国では必ずしもよく知られておらず、毛利美都代氏が行なった「日本における読書療法の必要度調査に関する報告」によると、図書館司書やカウンセラー、教師等の専門職グループを対象として「読書療法に関する知識レベル」の調査においては必ずしも高いものではありませんでした。しかし、「読書療法」という言葉そのものは知られていなくても、「本は子ども達に関わる仕事の現場において、子ども達の心の問題の解決のための助けに成るという考えのもとに、さまざまな目的や方法を持って用いられている」ということが判明しています。
我が国における「読書療法」には多様な展開が見られ、梅光女学院短期大学部の村中李衣氏の実践する「読みあい」(絵本などを一対一で読みあうこと)等にも広く行なわれるようになりました。
一方、「朝の読書」の現場からの報告の中に、「朝読」によって、「342人の『静』の時間ができた、というのがありました。これは、秋田県のある小学校からの報告で、『朝読』が、毎朝行なわれるようになって『朝自習は何ですか』と、学担に尋ねる子どもたちや学級もなくなり、次第に、全校中が『静』の時間を共有していった。こうした『静』の時間は、子どもたちはもちろん、教師にとっても、一日のスタートを快いものにしていった」と語られています。
これは、「集団」の中で、一人一人が、「ひとり」の時間を体験していることを意味しています。読書による最も大きな効用のひとつは、この「ひとり」の時間において、村田夏子氏の語る「精神世界を広げる」機能が果たされることではないかと思われます。言い換えれば、「内的な空想世界」における想像力が「ひとり」の状態で活発になるのではないかと思われます。
フロイトやユングの研究で我が国でも広く知られている英国の精神療法家アンソニー・ストーは、このような「ひとり」の状態、すなわち、「孤独(ソリテュード)」について次のように述べています。
「創造的な人にとって最も重要な瞬間は、何か新しい洞察を得るか、あるいは新しい発見をする瞬間である。そして、このような瞬間は、必ずとはいわないまでも、主としてひとりでいる時なのである。」
曽野綾子氏の主張する「自分を創るための読書」について語るなら、読書がわたくしたちにもたらすものこそ、ストーの語る「ソリテュード(孤独)」であり、「ソリテュード効果」ともいうべきものによって、わたくしたちは創造的な発見をし、かつ、自己を創ることができるのではないでしょうか。
これまで述べたことの意味をより明確にするために、ここで、「孤独(ソリテュード)」と「孤独感(ロンリネス)」の違いを区別しておく必要があります。「孤独感」は、いわゆる「さみしさ」であり、社会的関係や人間関係から切り離されていることによって生じる感情を意味しています。一方、「孤独」は、単に「さみしさ」とは異なり、むしろ「ひとり」でいることの積極的な意味と役割を示すものです。我が国における研究の多くは「孤独感」の研究である、多くの場合、「決別」し、「克服」すべきものとして語られています。1988年に『孤独』という著書を発表したアンソニー・ストーによれば、「孤独」は、創造的な人々が必要としているものであり、人間の内的な統合に独自の有効性をもつものであることを力説しています。
ストーが活動していた英国の精神分析では、「対象関係論」が全盛でしたが、そのような中でストーは、クラインやウイニコットによって代表される学派の核心部分であった「人間関係」を批判し、逆に、ウィニコットがある講演の中で述べた「ひとりでいられる能力」を援用しながら、「孤独(ソリテュード)理論」の根拠を示しています。ウイニコットは、「おとなになってからのひとりでいられる能力は、幼児が母親がいるところで独りでいる状態を経験することにその源がある」と語り、「独り(つまり、誰かがいるところで)のときにのみ、乳幼児はじぶんの個人的生活を発見することができる」と主張しています。ストーはまさにこの点を評価し、「独りになって想像力を働かせて楽しんでいるような子どもは、秘められた創造能力を発現させるかもしれない」と述べています。
このように「独りでいられる能力」に対するストーの評価は極めて高く、「独りでいられる能力」、すなわち、「孤独(ソリテュード)」こそ、「自己発見と自己表現に結びついていき、自分の最も深いところにある要求や感情、衝動の自覚と結びついていく」として、「孤独」の価値と効用を論じているのです。
我が国の心理学者はもちろん、多くの人々にとって、「孤独」はいまなお、「孤独感(ロンリネス)」であり、さみしく、暗いものと理解されています。しかし、海外の知識人の間においては、「孤独(ソリテュード)」はむしろ積極的で明るい意味で理解されています。メイ・サートンの『独り居の日記』(武田直子訳、みすず書房)では、「創造の時空としての孤独」が鮮明に描かれ、その詩集『セルフ・ポートレート』の邦訳(落合恵子訳)に付された署名は『わたしの愛する孤独』となっています。海外で出版された様々な「引用句集」には、必ず「ソリテュード」の項目があり、それがいかに人間の創造的な機能に貢献しているかが示されています。多くの人々が「ソリテュード」のための時間や場所を求め、「独りの時間」を大切にしています。それは、一人一人の人間を単に自然の一部として見るのではなく、独立した意識として見ることによるものと思われ、自然に溶解するのではなく、自然と対峙する人間の存在についての認識に基づくものと思われます。このような人間観においてはじめて「ソリテュード」は成立し、「自己発見」は可能となるのではないでしょうか。
わたくしは、2001年に発表した『もう「ひとり」は怖くない』(祥伝社)の中で、「ソリテュード・タイム(S・T)」の提案を行ないました。誰でも、どこでも、「ひとり」になる時間をもつことの必要性と有用性を述べたのです。これは、集団の中、例えば電車の中でもよいのです。
学校の中での「ソリテュード・タイム」に最も適しているのはまさに「朝の読書」であり、例え342人の集団が一斉に「朝の読書」を実践したとしても、そこに実現されるのは、生徒の「ひとり」の時間であり、「本」と「自分」に向き合う時間です。歴史上のあらゆる天才たち、芸術家たちがこのような「ひとり」になることを通じて創造的な活動を行ったように、わたくしたちは、「読書」を通じて「ひとり」になること、すなわち「ソリテュード・タイム」を持つことによって、初めて人間性を回復し、「生きる力」を得ることができるのです。「読書」はそのための最も有効な手段であり、それだからこそ、いまや全国に各種の読書推進運動が拡大し、その効果が生み出されつつあるのだと思われます。