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ペットを看取るということ 天国の犬からの宿題

第3話:「この犬、返品したら?」。獣医の言葉に私は驚き、発奮した。

日経ビジネスオンライン
2009年6月3日掲載

【執筆こぼれ話】

「この犬、返品したら?」と言った獣医師は今はいない。噂によると仕事に疲れてしまったらしい。このコラムではピピがいかに虚弱な子犬だったか、そしてそれは個体差というよりもコンパニオン・アニマルを選ぶ私たち、ブリーディング(繁殖者)をする人、販売者の意識を変えることによって避けることも出来きるのではないかという問題提起をしたかった。連載では私の体験と心模様について触れているだけだが、今後それらについても考えをまとめたいと思っている。

2009年8月31日に迎えた同じ犬種の子犬(凜りん)はピピと正反対。エネルギーが漲り生後138日を迎えた現在、体重は1400gになろうとしている。彼女とはどんな絆が育まれるのだろう。散歩デビューは、「ピピが落ちた池」の場所にしようと決めている。

【本日のきもの】

小紋の袷(あわせ):師匠から頂いた40年程前の品。
深味ある茄子紺に白の染はまさに江戸好み。

練馬のペットショップにいた、最も小さいヨークシャー・テリアのピピ。細心の注意を払って自宅に連れ帰ったが、翌日になっても咳が止まらない。私は、近くの獣医にピピを診せに行くことにした。

獣医はピピを見ると、「ケンネル・コフ(犬の風邪のような状態)ですね」と言った後、信じられない言葉を口にした。

「それにしても生後3カ月のヨークシャー・テリアでこの大きさは、小さすぎますなぁ。先々病気がちになるかもしれませんから、ショップで返品か交換をしてもらってはどうですか?」

「返品? 交換?」。獣医のこの一言が、私の母性に火をつけた。“返品なんかするものですか。私がピピを健康にしてみせる。だってこの子が私を選んだのだから”。

たった一晩一緒にいただけの小さな存在でありながら、驚くことにそれは既に私の心の中の大切な部分を占める、掛け替えのない存在になっていた。あの時、練馬のペットショップで押されたスイッチは「無償の愛」というボタンだったのだ。

ピピ(当時9歳)と散歩する著者
ピピ(当時9歳)と散歩する著者

「もし、このまま飼うつもりなら、1週間で体重を100グラムほど増やす努力をしてみてください」という獣医のアドバイスを受けて、私の奮闘の日々が始まった。

食の細いピピに何とか離乳食を与えようと、私は必死だった。「足の骨をもう少し太くしないと」と言われれば、それまでは車による移動ばかりで、歩くことなどしなかった私が、1時間でも2時間でも、ピピを連れて散歩に出るようになったのである。

その後2カ月の私のスケジュールとお金は、ピピのためのものとなっていた。ピピと一緒に過ごす日々、そこに新しい発見があった。それは「己」を内観するほどの新しい視点で、自分の弱さに気づかされることであった…。

犬の世話で疲れきったが、満足の日々

初めてピピとペットショップで出会った日。漆黒のボタンのような瞳、ぷっくりと黒く湿った鼻。抱き上げると溶けてしまいそうな存在に、私は一瞬でノックアウトされた。私だけではなく、オーナーの多くはコンパニオン・アニマル(伴侶動物)と目が合った瞬間を「運命の出会い」として記憶しているのではないだろうか。

しかし私の「運命の出会い」は、甘い生活からのスタートではなかった。標準体重に達していないその体を大きく強くするために、食べさせ、排泄させ、鼓動を測り、通院に時間を注ぐことを繰り返した。

咳は治まったものの、心臓の鼓動は通常(120〜150回/分)の倍ほどの速さで打ち、苦しそうにあえいでいるのが常だった。ドッグ・イヤーという表現があるように著しく成長するその時期は、まずは体重を増やさなければならない。

離乳食、ミルク、ドライ・フード(小さな丸い乾燥粒)、ウェット・フード(缶詰)…。どれにもほとんど興味を示さないピピに、私は励ましの言葉や褒め言葉を聞かせたり、遊びながら語り聞かせをするなど、あの手この手で食べさせようと試みた。

「1週間であと100グラム増えないと、今後の懸念もあります」という獣医の何気ない一言は、私の責任感を全開にさせていた。

秋の気配の中、気づくとピピと出会って3カ月が経ち、私の予定はめちゃくちゃになっていた。しかし、仕事への焦りも、後悔もなかった。1つの存在のために見返りを求めず、ただ健やかな成長を願い、できるだけのことをしたい。それは何かを犠牲にしたというよりも、ただひたすら私を選んだ小さな命を幸せにしたい、という充実した日々であった。

仕事においては冷静さを保ち、結果を出すために整然と自己コントロールしてきた生活とは180度異なる、カオスの中にもかかわらず、私の心は温かい希望で満たされていた。

ピンクがかった滑らかな肌に触れ、プラチナ・ホワイトの光る毛をなでさするという行為が、こんなにも心を落ち着かせるということを初めて知った。数年前、仕事でのつらい出来事のために傷つき、揺れやすくなっていた心は、ピピに触れその面倒を見ることで、自尊心を修復していたのかもしれない。

ある陽だまりの午後、私はピピの育児と看病の疲れで、うとうととしていた。すると、こめかみのあたりにかすかなぬくもりを感じた。誰もいないはずの部屋で私は、からだをこわばらせ、五感を研ぎ澄ませた。長い間の独り暮らしは、条件反射的に防御姿勢を取らせるのだ。

すると「すーっ」というかすかな吐息が聞こえてきた。おそるおそる首を回してみる。そこにはケージに入れたはずのピピがいた。私の頭の横に握りこぶしくらいの頭をつけ、胸を穏やかに上下させながら眠っていたのである。

ピピと暮らし始めた当初からトラブルが多く心配ばかりしていた私にとって、その時初めてコンパニオン・アニマルが与えてくれるゆったりと流れる優しい空気に包まれた。

今こうして思い出しても、日々一生懸命だったこと、そして頑張りすぎないことの大切さに気づかせてくれた瞬間、言い換えればコンパニオン・アニマルとの生活の醍醐味を体感した時であった。

初めての散歩に連れて行く

標準より小ぶりでありながらも、ピピの体重も次第に増えていった。

平均より1カ月ほど遅れながらも、2回のワクチン注射も終えた。次はいよいよ、散歩デビューである。それまでもしつけの本に従い、音や人に慣れさせるために、抱いて戸外へ連れ出す訓練はしていた。しかし、首輪とリードをつけて一緒に歩くことこそ、犬オーナーの喜びであろう。

「犬をオーナーの左側につけ、リーダーは人であることを理解させるべく前を歩かせず、においをかぎ回ったり、勝手に思い通りの方向へ行かせないように…」というしつけ方法を反芻し、高らかなる決意を胸に外に踏み出した。

地面に降ろすと、初めてのことに戸惑ったのか座ったまま動こうとしない。「歩いてごらん」と言っても、しばらく固まっている。数分後、やっと歩きだした姿は、地面を平行移動するというよりも、ピョコピョコと上下移動になっている。蝶を追いかけては一緒に飛ぶ気になって高くジャンプしている。その様は、得も言われぬ微笑みを誘う。

友人に聞くと、人間の子供も同じらしい。そんな状況で、ピピを私の左にぴたりとつくように一緒に歩かせるということは、殊の外難しい。まず、互いの呼吸が合わないのである。

好き勝手な方向へ走ったり、立ち止まったり、そのつど私は小さな白い塊を踏みそうになる。何かにおいをかいでいるが汚いものを舐めていないか、拾ったものを口へ入れていないかと、いちいち気になってしまう。

「ヨーキー(ヨークシャー・テリア)の散歩は、15分程度を1日2回で十分です」とペットショップで言われ、「その程度なら」と思ったが、当初はその程度の散歩でも、私はくたくたになっていた。

次第に散歩にも慣れた頃、こんなことがあった。

お気に入りの散歩コースには、地面から少し下がった高さに、柵もない人工の池があった。テリトリーを広げつつあったピピは、いつものコースを延長して、そのまま池へと近づいていった。次の一歩は水面なので、当然止まるだろうとリードを持つ手は緩めたままでいた。

すると、そのまま池へと歩を進めた。その様は、まるで水上を歩く忍者犬である。ピピは空中で数回足をばたばたさせた(確かに、少し進んだと思う)かと思うと、水中にポチャリと落ちたのだ。

小さな白い塊が、人工池の端から1メートルほどのところでパニックになっている。何の躊躇もなく、私は池に飛び込んだ。抱き上げた白い塊は大きくあえいでいる。地面に上がった私の膝はその時になって少し震えていた。

結局その池は膝までほどの深さだったので、大事はなく、今となっては笑い話である。しかし「モーゼが水を分けて歩くの図」のピピ版エピソードを思い出すたびに、ほんの赤ちゃんだった頃を涙とともに思い出すのである。

楽しさはもちろんだが、散歩デビュー当初の戸惑いも鮮明に記憶にある。子犬と一緒にいると、多くの方が経験したことであろう。それは、すれ違う人が声をかけてくれることだ。不思議なことに(今は、当然なのであるが)、犬に直接話しかけたり、触れてくるのである。あたかも、オーナーは透明人間か付属品のように無視される。

 「まぁ、かわいい。女の子? 男の子?」
 「きれいな毛の色ね。ママと一緒のお散歩でいいわねぇ」
 「マロンちゃん、ご挨拶は? 小さい子には優しくね。そーっとご挨拶。はーい、よくできまちた」
 「ちっちゃいのねぇ。いくつ?」
 「まぁ、舌が出てますよー」
 「お天気になってよかったねぇ。バイバイ。またね」

私は本当に、苦しいほどに困ってしまった。

まず、素の自分でいる時に他人から声をかけられることが恥ずかしい。次に、せっかく声をかけてくれた相手へ失礼があってはいけない、ひいてはそれがピピへのいじめにつながってはいけないという、気弱な思いにとらわれる。そして、仕事をしている時の自分とは別に、今さらながら見ず知らずの人との世間話が苦痛である、ということに気づかされた。

小学生の頃、近所の幼稚園の送り迎えで集まるママさん集団を見ながら、「結婚して子供ができたら、近所の人と何を話せばよいのだろう」と胃がきりきりするほど悩んだ子だったのだ。そして、その性癖は社会に出て「社交的で明るい人」と言われるようになっても、深い部分では変わっていなかったのだ。

さらに違和感があったのは、「ママ」という役割呼称で呼ばれることだった。初めは誰のことを指しているのか分からなかった。それが自分のことだと理解した時、犬を子供に見立てること、そして赤ちゃん言葉で話しかけられることに、最初は不快感さえ覚えた。しかし、ベビー・バギーを押す母親が他の犬連れとこういう会話をするのを聞いて、犬連れの置かれている立場が少し分かってきた。子供連れと、同じなのである。

「ヒデキくん、わんちゃんですよ。かわいいわね。ご挨拶は?」。これは、赤ちゃんの母親。

「ウランでーす。こんにちは。いいお天気でちゅね」。これは、犬のオーナー。

そうはいっても、まだ何ともいわれぬ、居心地悪い感情に馴染めない頃、私は散歩に連れていくたびに、「犬連れに出会いませんように」と願っていた。通りすがりの人が向けるそんなたわいもない好意的な会話や笑顔へ、抵抗ない笑顔が自然に出るようになるまでに何年かかったことだろうか。

頑なでシャイな心、世間との折り合いのつけ方への不器用さ、褒められたいのに、実際そうされると照れてしまうこと、自分ひとりの場所に他人に土足で入ってこられることへの恐怖にも似た感情などなど…。これまで無意識に持っていた私の心模様が、ピピとの散歩という日常を通して浮かび上がり、どれほど内省させられたことだろうか。

そんな、これまでやり過ごしていた自分の感情に、散歩の途中で気づき、ため息にも似た思いでピピを見ると、いつも彼女は賢者のような落ち着いた瞳でじっと私を見上げ続けるのである。

「人生って、いっぱい学ぶことがあって楽しいね」と、テレパシーで語りながら…。

by @kazumiryu

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