連載第7話から5か月が過ぎた今、私の傍らには生後5ヶ月半の子犬がいる。同種のヨーキーとは言え、期せずして日毎にピピに似る被毛の色にうれしさと懐かしさが相半ばしている。
そして今再び「理想の獣医とは?」と自問する。すると、やはり柱となるのはあの時考えていた獣医像なのである。そして未だその様な“良い”獣医師を探す日々は続いている。
先日犬・猫好きの友人が集まった。そのうちの一人はここ数カ月犬の病気で大変な思いをしている。その方の良い獣医探しの話しを聞くにつれ、一同みな似た経験に深く頷く。情報交換で興味深かったのは、Aさんにとり良い獣医師が必ずしもBさんに良いとは限らないということである。そして、もし病気の診断をされたら、言葉を発せぬ相棒にかわりオーナーがその病につき必死で勉強し、知識をもったうえで獣医師と二人三脚で治療に当たるということも苦い経験から皆が学んだことだった。
家族として絆を育んだ小さな命にはそんな懸命な姿勢や愛情が伝わらないはずがない。私の場合には、その懸命さがピピを喪った後の痛みから、私を少しだけ守ってくれた気がする。
第1話でお話ししたように、ヨークシャー・テリアのピピは11歳で腎不全を患い、2008年12月27日に虹の向こうに旅立っていった。病の宣告をされてからの9カ月はもとより、一緒に暮らし始めた当初から、私はいつも「よい獣医さん」を求めて、涙、喜び、挫折、焦燥の混在する行脚の旅にあったといえる。
人の言葉をしゃべらない相棒の代弁者として“どんな小さなことでも変化を見つけたら獣医師に相談する”というのが、私の生活における鉄則であり、トップ・プライオリィーだと学習させられた。
最初は「でも、こんな些細なことを気にするなんて、過保護の飼い主だと思われないかしら」「先生も忙しいそうだし…。何度も同じような質問をするのも気がひけるし…。神経質だと思われたくないから」「ピピは怖がりだから病院で吠えたり噛んでしまうけれど、しつけをしていないと誤解されるのは恥ずかしい」「私がしつこくして先生に疎ましがられ、もし入院中のピピに差し障りがあったら…」などなど。
今振り返るとピピのことよりも、「医師から自分がどう見られるか」ということばかりを気にしていたと反省する。
獣医に対する、遠慮ともためらいともいうべき逡巡は、コンパニオン・アニマルのオーナーには多かれ少なかれ、経験があるのではないだろうか。
そんな気持ちが吹っ切れたのは、第4話でご紹介したドッグ・トレーナーの三好春奈さんの一言だった。
「言葉がしゃべれない者の代弁者として行動することは、“しすぎ”くらいでちょうど良いんです。気にしすぎや、やりすぎということは決してありません。小さな変化に病気や心の訴えが隠されているのです。それはあなた以外の誰が気づいてやれるでしょう?」
以来、私は獣医師にあきれられようと無視されようと、どんな些細な変化でも「ピピの代弁者」として報告し、アドバイスを仰ぐと同時に、折々に必要な獣医師をみつける粘り強さと勇気を持つよう心がけた。
そして、看病の間ずっと私は自分自身に対して問い続けた。
獣医師との気づまりや衝突を恐れて、楽な方を選んでいないか。
「物分かりのよいオーナーであること」に逃げていないか。
獣医師とコミュニケーションを取ることを、諦めていないか。
つまり、「真摯に、その小さな命を代弁しているのか」と。
そんなことを振り返っていると、経営者の友人からこんなメールが入った。
「出張前に病院に預けたうちの猫が、出張中緊急手術を受けたのだけれど、1カ月入院と言われて…。その病院は隣のケージに大きな犬がいて、うちの子もストレスがたまるし、心配。1週間経つけれど、深い部分の縫合がうまくつかないようで再手術と言われてしまって…」
普段の、理性的でクールな友人とは違う、取り乱したメールには「猫や病気のことを、もっと勉強しておくべきだった」「動物保険にも入っておくべきだった」と自分を責める言葉も連なっていた。
私は、以前彼女の猫の症状やそこでの治療法を聞いた折に、ふと不安を覚え、ピピがお世話になったK獣医師を紹介していた。
コンパニオン・アニマルのためには、獣医も1人だけでなく、分野、方針、診察日時の異なる人2〜3人と縁を築いておくのが重要だということは、私が体験から学んだことの1つだった。だから彼女にも、近くの病院の医師のほかにK獣医師を紹介したのだ。
さて、友人から悲痛なメールが届いた時、仕事中とは承知しながらも私はすぐに電話をした。
「お見舞いに行ったら、私の声が聞こえるだけで大きな声で鳴くの。喜んでいるというより、怒っているみたい。大暴れすると傷口にも悪いし、私も辛くて…。もう、行けない」。電話口の友人の声は、本当に辛そうだ。
「大変だったね。猫は家を離れると、それだけで大きなストレスになるから心配ね。今、どんな治療をしているか分らないけれど、幸い病院が近くて先生も往診してくださるなら、自宅で点滴治療という方法もあるかもしれないわね。とにかく治癒力が高まる環境をつくってあげないと」
詳しい手術内容や症状を尋ねるのは酷なので控えていたものの、彼女自身医師からあまり詳しく知らされていないということが分かり、傍から見ても不安を覚えた。
「うん。その子が家族であるという絆の強さを、もう一度先生にアピールしてくる。でも、なんだか人質を取られているみたいな感じがして…。先生の気分を害してもいけないし…」と、受話器の向こうから涙声が聞こえる。素早い決断力とさっぱりとした人柄が慕われる彼女の普段のイメージとは全く違い、それ故私の胸までも締めつけられた。
私には彼女の胸中ととまどいが痛いほど分かった。これまでピピのことで、似たような経験を何度も重ねていたからだ。
「その先生のお人柄のよさは分かるけれど、それと技量は別のこと。それに、もちろん、多忙なK獣医師に遠慮する気持ちも理解できるわ。そういう大人としての配慮は分かるけど、人間関係は後になっても修復できるはず。でも、まずは猫の命のことを考えて」と、私は言った。
電話の向こうで彼女は我を取り戻し、私が紹介したK獣医師に連絡を取り、担当医を交じえて相談した結果、大学病院で診察できるよう手配してもらった。こうして、その病気に関する権威と評判の獣医師の緊急手術を受けることができたのだった。
彼女の電話から1週間。
「もう少し遅ければ、肢を失うところでした」と言われた猫は、手術を無事終えて退院した。今、エリザベスカラーをつけて、友人の膝の上を離れずに甘えている。
偶然友人と猫の体験に関わったことも含め、私はつくづく「よい獣医師とはどんな人だろう?」「獣医師とよいコミュニケーションを取るためには?」と、“物言えぬ命の代弁者”として、深く考えさせられた。そして、これについて皆で意見交換していくことも、ピピからの宿題の1つではないだろうかと思うのである。
私が考える理想の獣医師像は、こんな人である。
1)コンパニオン・アニマルを大切な家族であると位置づけ、自身でそのことを体験した人
2)まずコンパニオン・アニマルの側に立ち、感じ、治療方針を立てられる人
3)言葉に表せないオーナーの希望をすくい取り、現実の治療方針に落としこめる人
4)自分の得意分野以外は、他の獣医師に任せられる謙虚さを持っている
5)科学的エビデンスが確立されていない分野(アロマオイル、フラワーウォーター、ホメオパシー、鍼灸、マッサージ、お祓い、場の浄化など)にも理解を示し、治癒力を高める方法として否定しない、あるいは活用しようとする人
6)オーナーに状況や治療方針を説明できるコミュニケーション力のある人
新聞に、ある獣医師(30歳)の投稿があった。彼は膝の骨を脱臼して診察を受けた際初めて、言葉を話せない動物の「恐怖と不安」を学んだとあった(朝日新聞2009年5月27日朝刊)。このように、自身の経験から想像力を働かせて動物に一層こまやかな目配り、心配りをし、治療方法の改善を誓う獣医師が増えることを切に願うばかりである。
もちろん、責任は獣医師だけにあるわけではない。信頼関係は一方的には築けるものではないからである。オーナーも努力を惜しまず、普段からコンパニオン・アニマルの「代弁者」として、どんなことでも謙虚に自然に伝えられる人間関係を築ければ、いざという時どれほどストレスが減ることであろう。
それはオーナーの悲しみを軽減し、獣医師も自信ある治療方針がたてられ、二人三脚でコンパニオン・アニマルの病気に向かいあう勇気を育む。そんな努力の結果の信頼関係や勇気が、知的伴侶である小さな命に伝わらないわけがないのである。
ピピ、私はあなたの良き代弁者を全うできましたか?
by @kazumiryu