コラムの取材過程で、日本では15歳未満の子ども1860万人よりも、人と一緒に暮らす犬・猫が上回っているという数字には改めて驚いた。多くの人にとり犬・猫を「家族と考えるか」という問いかけすら無用なほど、彼らは人との間に絆を築いているといえる。
一方、年間に「殺処分」される頭数も先進国の中では群を抜いて多い(犬約20万、猫約30万)。
この回では、日経ビジネスオンラインに寄せられた書き込みもいつになく多様であった。
なかでもコンパニオン・アニマルの死の表現についての意見は興味深かった(以下、抜粋)。
「家族なので“亡くなる”が自然である。もちろんそう思わない方に強制するつもりはないが、そう考える心情も理解して頂ければと思います」
「ペットの死を“亡くなる”という風潮が嫌。動物は動物」
「ペットを家族の一員にすることに違和感はないが、“亡くなる”は抵抗がある」
言葉一つとっても、これだけさまざまな意見がある。そんな中「ペットに10万かける女たち」などとは異論反論が生まれる最近の調査結果だと考え取り上げた。
コンパニオン・アニマルを巡る現代の現象とそれを生み出すオーナー(飼い主)の心の側面を合わせて、考えていくことは成熟した社会を作る一つの姿勢ではないだろうか。
ピピの旅立ちの後に体験した様々な「喪失感」は、私に悲しみと同時に成長をもたらした。それは単に「犬の死」だけでは余りある絆の証明となっている。
いくつになっても、自己分析は難しいものである。しかし「自分取り扱い説明書」と問われて最初に浮かぶ答えは、「楽天家」である。先のことはできるだけ思い煩わず、直感に従って行動できるように努力をしているつもりである。
ところがピピと出会った1997年7月以来、私は先の不安を感じるようになっていた。前回書いたように、ピピが当初より病気がちだったということも一因だった。しかし私が何よりも恐れたことは、「喪失」だった。
ピピと一緒に暮らすようになってから、病める時も健やかな時も、そのかわいい姿にうっとりし、生活はぬくもりに満ち、これまで味わったことのない穏やかな幸福感は毎日褪せることがないばかりか、日々に強くなっていった。
そしてそれに比例して、私の中のピピを喪失することへの、理を超えた恐怖心は増大した。
そこで私がしたことは、まだ生後6カ月であるにもかかわらず、「ペットロス・カウンセラー」の情報収集をすることだった。1998年当時、まだ耳新しかったその言葉は、ペットを失ってうつ状態になった人を助けるための心理療法と考えられていた。
私はペットとの突然の別れ、そして自身が立ち直れずに仕事ができなくなることを心底恐れていたのだった。「その時」に備えて、多くの記事の切り抜きを集めてファイルし、私はやっと安心できたのである。
しかし、実際直面した出来事は、それらの準備が手助けとなってコントロールできるようなものでは、到底なかった。昨年12月27日にピピに旅立たれて以来、私はファイルした切り抜きを見ることさえできないほど、打ちのめされていたのだった。
人はなぜ、それほどまでにコンパニオン・アニマルに深い愛着(アタッチメント)を持つのだろうか。それとも私だけが、小さな命に固執しすぎているのだろうか。
その回答の1つが、この数字の向こう側に見えるのかもしれない。
2007年の厚生労働省の調査によると全国の登録犬数は約674万頭であり、実際はその倍以上の犬が、人と一緒に暮らしていると推定される。その数は15歳未満の子供の数1860万人を優に超えるという。家庭で暮らしている猫の数を入れれば、さらに数は増える。
かつて庭で「番犬として飼っていた」時代とは異なり、多くの人が「家族の一員」として、犬と生活を共にしているのである。
例えば子供に「家族の絵を描いてみて」と言うと、犬を描いてくる子がいるのも、自然な時代なのである。
番犬、愛玩犬、ペットから伴侶犬(コンパニオン・ドッグ)へと呼び名は変わり、さらに生活を重ねるとともに、オーナー(飼い主)の感情や考えまで汲み取れるようになる知的伴侶犬として、かけがえのない相棒だと実感する人が多く存在しているのである。
その一方で、教科書検定を巡る中で「犬=家族」であることに異論を唱える発言があることを知った。
「おじいちゃん、おばあちゃんと一緒の写真。こっちは犬と子どもと一緒の写真。両方家族ですって。おばあちゃんは犬と同じか。こんなふざけた話がどこにあるんだとやりあった」という麻生首相の発言が物議を醸した。
これを受けて文科省の銭谷事務次官は、首相が指摘した教科書の記述変更は、中学校の技術・家庭の教科書から「Aさんの家族(母、父、弟、犬」との記述が削除された2004年の検定などと思われると指摘し、それは検定委員会の意見に従ったものであると、政治的介入を否定した。しかし、この記事を読んで違和感を覚えたのは愛犬家だけではないであろう。
さらに興味深いニュースがある。5月13日の愛犬の日(1994年にジャパンケネルクラブが制定)に向けて、パナソニックがペット(犬、猫、ハムスターなど)と暮らす300人を対象にしたインターネット意識調査である(報告書はこちら)。
「ペットの存在とは何?」の質問に7割以上が「家族の一員、兄弟・子供のような存在」と回答。他に「癒し・安らぎ」「恋人のような存在」「運命共同体」「自分の命に代わるもの」というように、人間の家族以上の愛を抱いている人も多くいた。
月々にかかる費用は、半数以上の女性が5000〜2万円と回答。5.7人に1人の女性は「ペットの悩み解決のためなら10万円以上支払える」と回答している。
パナソニックは、テレビなどに接続できるセンサーカメラを発売している。このセンサーカメラは当初、駐車場や玄関先を見守る目的で作られた。ところが本来の目的以外に「ペットを見守るための機器として活用している」というユーザーの声を受けて、今回の調査をしたという。
米国では、留守中に子供の様子やベビーシッターの仕事ぶりを確認できるようにカメラを設置している家庭もあるが、それと似た感覚なのであろう。
この調査で「ペットの存在は自分の命に代わるもの」という回答があるのを知り、私は2つの思いに包まれた。
写真を見るたびに、ピピの姿が浮かぶ
1つは、コンパニオン・ドッグとの強い「情緒的結びつき」があるのは、私だけではないのだ、という安堵感。そしてもう1つは「私とピピが築いた絆は、他の誰よりも特別で強いもので、簡単に言葉で表せるようなものではない」という誇りである。
ただ、後者の思いがあるが故に、喪失感はどこまでも深くなるのである。一方その誇りを矜持とすべく、グリーフィング・プロセス(悲しみを癒やすプロセス)の時に、最初に見舞われる純粋な悲しみに蓋をしてきたのかもしれないと半年を経た今になって思う。
「ピピが病気になってからは、看病も、私にできることはすべてさせてもらい、自宅で看取ることができた。そこから学んだことを、微力ながら社会に還元することが天国に行ったピピからの宿題なのだろう」
数カ月前を振り返ると、悲しみに浸るよりもそんな使命感が、私を支えていたような気がする。涙が押し寄せるたび、そのことを自分に言い聞かせ、気丈に前へ進もうとしていた。
ただ、悲しみはあの手、この手で私の心の深いところをえぐってくる。涙も枯れ果て息をするのもつらくなり、真夜中に「ピピー!」と部屋で叫んだこともあった。
亡くなって1カ月後、1人の家にいるのがつらく、海外へも行ってみた。そこでは、待っていてくれた友人たちのやさしい慰めと、私の中の哀しみにギャップがあり過ぎて、かえって心を傷つけられたように感じたこともあった。
他の人からは、当時の私はいつもと同様に見えたかもしれない。お世話になったペット・トレーナー、K獣医師など、コンパニオン・アニマルをオーナーと一緒に見送った経験のある方々に、時に「つらい」と小さくつぶやきメールすることもあった。
しかし、2カ月を経た頃、悲しみを1人で抱えるには限界がやってきた。そんな折、かつて集めたペットロス関連の記事が出てきた。そこには、無料で電話相談ができるホットラインの番号があった。
毎週土曜の13〜16時という受付電話番号に、目が吸い寄せられた。その日は土曜日、時計を見ると12時50分。私は何かにすがるように、13時になるまで何度も何度も同じ番号にかけ続けた。
by @kazumiryu