私が教えをうけたきものの師は、かつて美容室経営はもちろんのこと、海外での仕事やメディア出演、執筆、講演、各団体の理事なども歴任した先端をいく女性でした。
出会いの詳細は拙著(『着たい!私のふだんきもの』)に譲りますが、師の残した文章は、今になってしみじみと受けついでいく真髄であると感じます。そう考えますのも、そこにある内容は江戸っ子らしい合理性と、数十年前当時の事情もわかる貴重なものだからです。
もちろんプロの上にたつプロですから、あらゆる決まり事に精通したうえのセンスあるもの。
現在では思い込みや知識の混乱から間違いがちなコーディネイトへの回答にもなりそうです。
そんな達人の知恵を伝えたく、前回に引き続き羽織にまつわるエッセイです。
(割愛、注、太字部分は読み易いようにKazumi流でおこなっています)。
羽織 ― 辞書をひくと“羽おるもので、上衣の上におおい、着る衿を折った短い衣”と出ています。羽織という言葉が出てくるのは、江戸時代に入ってからですが、羽織の原型ともいわれる胴服は室町時代から始まっています。
胴服というのは、小袖の上に重ねて着る小袖の補助衣で「道服」とも書きます。初期の胴服といわれるものは、室町、桃山、江戸初期のものを申しますが、これは現代の羽織に近いものは少なく、狭い袖幅や広い身幅など着づらかったものが、次第に着易さや格好の上で改良され、現代の羽織に発展、完成されたものといわれています。
私達が現在きている羽織丈は膝くらいですが、私の子供の頃の写真を見ますと(注1:昭和初期)大人たちでも、膝下まである随分長いものを着ています。江戸初期の、春信(注2:江戸時代中期の浮世絵師 鈴木春信)の浮世絵の、若衆の羽織もかなり長めですが、衿だけ別の黒い布地を使っているのが面白いと思います。女性の場合、羽織の丈が短すぎるのは下品ですし、長過ぎるのは野暮、となかなか難しいものです。
黒紋付の羽織を、女性が着るようになったのは、明治に入ってからで、男性の黒紋付にあやかったものと思われます。Nさんにも説明しました通り、紋付の羽織を着ることによって、小紋の着物も準正装にみなされるという便利さがあるというだけで、紋付の羽織を着るのが正装ではありませんので、お間違いのないように。
紋付といっても、紋の数や白抜きか陰紋か、縫い紋かによって羽織の格が違ってきます。地色は関係ありません。男性の正装が黒紋付なので黒が多いのでしょうが、黒はどんなものにも合わせ易いという利点もあるからなのです。また、裏地は特によいものを使います。外出先で脱ぐことがあり、そのときに見られることを意識したおしゃれで、下着とか裏値に凝るのが江戸風の心意気なのでしょうか。